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但馬野鳥の会 ラップウイングの再版 その原稿
趣味を育てて・・・  岩本和久

松本茂先生、小林桂助先生との思い出  ~中学生時代~

ボクが中学生3年生の頃、ラップウイングVol.1 の表紙を描いた。タゲリの羽ばたく姿を描いた細密なペン画の表表紙と、単純な線で描いた裏表紙だった。ペン画を見た小林先生が、松本先生の所に手紙を書かれた。「岩本君、小林先生から手紙が来ているから見においで」と松本先生から電話。指定の場所があった。そこは、生田通りにある「かき船」。看板を見つけ、中に入ろうとしたら、「18歳未満お断り」と書いてあった。その時、ボクは15歳。思い切って入ると、中に松本先生が席にいらしたので、ホッとしたのを覚えている。早速、小林先生の手紙を見せてもらうと、「表紙の画は中3の生徒の力作の由、実感が実によく出て居り、この程度の絵が揃えば立派な図鑑が出来る事と存じます。近頃新聞紙上に鳥の絵をよくかいて居る薮内正幸君 もう10年も前の事ですが、大阪の高校卒業前に母親と一緒に描いた画をもって私を訪ねてまいりました。将来鳥の絵で身を立てたいとの相談をうけましたので、東京へ行けば出版社が多いので画で生計をたてる事も出来るだろうとアドバイス致しましたが、近年では鳥の画としては一流になりました。岩本君のタゲリの画はたいへん見事でありますので事情がゆるせば鳥の画で身を立てることも可能ではないかと愚考致します。」(昭和57年8月25日)と書いてあった。松本先生も同じ考えのようだったが、ボクは未熟で、しっかりとした考えが無かった。取り敢えず、その手紙のコピーを家に持ち帰り、父に見せることにした。父は画家になることは大反対だった。画家は死んでから儲かるものだから、絶対いいことが無いと言った。ボク自身は画家になりたかったが、中卒ではダメだから高校へは行きなさいとの事だった。仕方なく、行きたくない高校に入学し、美大や芸大に行ければと、普通の勉強のかたわら、よく絵を描いていた。高校2年の時、S君から面白い漫画を見せてもらい、ショックを受けた。それは「風の谷のナウシカ」といい、映画化される前のもので、絵の迫力に圧倒された。

模型で遊ぶ  ~高校時代~

ちょうどその頃、静岡のタミヤ模型という会社が、人形改造コンテストというものをやっているのを知り、高校の同級生と出品することにした。ただ出品するのは面白くないので、自分なりにシナリオを書いた。それは、「彗星のように現れた無名の少年が、模型のベテランの大人たちをよそに、最高賞の金賞を獲る」というものだった。ボクは迷わず、モチーフに風の谷のナウシカを選んだ。まだ、誰も色も見ていないし立体にしていないものだった。もしこれで、金賞が獲れたら、どんなに世の中がびっくりするだろうか・・・。と考えて、とてもワクワクしていた。シーンはとびきり迫力のあるもので、動きがありつつ、自分で決めた色で丁寧に作ろうと思っていた。35分の1スケールという、とても小さな世界に、大きな志を込めて作品を作った。自信と手応えはあったが、結果は残念なものだった。銅賞と、ふるわなかった。それでも全日本の3位なのだから、喜んでもいいのだが、シナリオがパーとなり、とても悲しかった。一緒に出した友人も佳作と、4位という結果を出した。意外だったのは、かの有名な漫画家の鳥山明氏が佳作で、彼に勝ったことだった。しかし、この時に、物事の難しさを味わった。そんな事をして遊んだ高校時代、まともに勉強しているはずもなく、当然勉強はビリ。誰も絵を教えてくれないので、本を買い、独学で理論を勉強した。普通の勉強は全く頭に入らないけれど、絵の理論だけは不思議と理解できた。

さらに遊ぶ  ~大学時代~

バードカービングというものを、中学時代からやっていたので、大学でも日本画を専攻するかたわら、よくバードカービングをやった。一度、鳥以外のものを作ったことがある。それはトノサマガエル。学生が、モチーフである水槽のトノサマガエルを描いている時に、あらかじめ紙粘土で作っておいたトノサマガエルを水槽の中の石に置いた。リアルに着色し、ツヤが出るように、木工ボンドでコーティングしたりして、本物そのもの。しばらくほうっておいた。それでも学生はそれが作り物だと気付かず、黙々と描いていた。ボクひとり、クスクス笑っていた。そのうち、他のカエルが水しぶきを作り物のカエルにかけ、それで色があせてきて、皆異変に気付いた。それは面白いイタズラだった。そして、京都の芦生などのフィールドへよく出かけたのもこの時期。近くの京都大学の中に、「賀茂川バードリサーチングチーム」というものがあり、ボクも一員になっていた。但馬野鳥の会のTさんの講義や、Hさんに鍛えられていたのもあり、先輩よりも鳥の名前や声を知っていたので、優越感があった。しかし、日本は広い、いろんな強烈な先輩がいらして、面白かった。

仕事と趣味との狭間で  ~社会人になって~

「和久、たのむ、帰ってきてくれ!」と、父から電話。家業がうまくいかず、お金が無いので大学をやめてくれとの事だった。奨学金も何も無いので、仕方なく家業をすることになった。毎日毎日、掃除と機械の修理。丁稚奉公をしながら、少しずつ会社の仕事を覚えていった。仕事が忙しくなり、それこそ「たのむ、ボクの代わりにトイレに行ってきて」と言いたくなるような日々が続いた。そして、体をこわした。身長181cmのボクが、一時期体重が48kgまで減ったこともあった。「仕事ばかりではいけない。死んでしまう。」と本当に思った。趣味と仕事のバランスは大切。結婚してからはバードカービングをする場所と時間が無くなり、今は専ら仕事帰りにコントラバスを弾いている。おそくに始めた趣味なので、聴けたものではないが、出来ないことが出来ると、とても楽しい。全く自己満足の世界である。2010年9月12日の午後、氷ノ山にて、ボクのコントラバスの師匠の奥田一夫先生が、マウンテンバイクの事故で亡くなった。奥田先生はナチュラリストであり、趣味の話でよく波長があう人だった。奥田先生も「仕事と趣味のバランスが大切」とよく言っていた。奥田先生が、ボクが高校時代に作った人形改造コンテストの作品をよくご存知だったのには驚いた。同じ趣味を持っていて、コントラバスの35分の1スケールのミニチュアを作ってらっしゃった。何故、奥田先生がボクの作品を知っていたのかを聞くと、大阪の高島屋で展示会をしていたとの事だった。その頃はボクの受験の年で、展示会があるのを知っていても、行くことが出来なかった。思いがけない縁。しかし、その奥田先生も趣味での不慮の事故で亡くなってしまった。人生、いったい何があるのかわからないもの。仕事でのストレスで死ぬこともあるし、趣味での事故で死ぬこともある。ボクが小学生の時に松本先生にサイン帳に書いてもらった言葉がある。「趣味を育てよう」。大切な言葉だ。その先に、より良い人生が待っていると信じて、ボクも趣味を育てていきたいと思う。

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松本先生がくれた手紙に書かれた文
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ラップウイングの表表紙。これを描いた時は15歳。
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裏表紙。「たげり」と描いて、タゲリの形に。4つの縦線は、冬の田んぼをあらわした。
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小林桂助先生直筆の手紙。
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第12回タミヤ人形改造コンテストの入賞者作品。
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ボクの作品。当時17歳。
by genbudo | 2010-10-08 23:56 | 社長ブログ
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おかき・仕事・生活・趣味など、かずひの視点から、さらりさらりと書き込んでいます。

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